李 Jacksonの作品について、彼はいつの頌から陶芸に興味を持ったか私は知らない、しかし景徳鎮陶磁大学をで勉強をし、アメリカの有名なALFRED UNIV.を卒業としたと、私は聞いている。
と私(寄神宗美)の作品は全く逆の表現をしている様に思っています。彼裶震の作品には既成の陶器には反発をしている。彼は景德鎮の陶芸の産地にある商品化した陶器、また新鮮さのない陶器には物足りなさを持っていて、何の狂いも無い整形化した陶器作る事には反発し、ロクロで成形した壺をわさと歪めて土の持っ特長の生理に従っている。

《新民窑·缽器》楽焼
2018年 14CM×14CM×12CM

《新民窑·花器》柴焼
2023年 25CM×25CM×25CM
また景徳鎮には古い窯跡の発掘品の中に、物にならない捨てられた陶器の破片に、陽の目を当てようと持ち出し、また自らその様な作品も作り出している。これらは-般陶芸家はやらないことだる、しかし、彼は焼き物の負の部分を表現することによって、あるべき姿を出していることでしよう。彼がアメリカペ行った事は、アメリカには、もともと陶芸はなかった、そこで彼らが表現するものは、陶器の器ではなく、陶土を単なる造形素材としての価値を持っていて、陶芸そのものが、私たち東洋人には逆に新鮮なものとして、見えてきたのでは無いでしようか?

无題
2015

《罐壁の一》陶瓷
2015
34CM×13CM×40CM
私は1970年に京都で開かれた、北米の陶芸展においてそう感じました。ビタ-ヴオ-コス、ジエイムス メルチャ-ト、マリリン レビンなどの作品を見て陶芸の可能性の影響を受けました。また景德鎮の陶器を見ていた李JACKSONも同じ様なショックを受けたのではないでしようか?私の場合、陶芸家の家に生まれましたが、土には触れておりませんでした。

《远去》
陶瓷 2019年35CM×18CM×30CM

《被遗忘的》
陶瓷 2022年 51.5CM×51.5CM
攉耨して、25歳になって初めて陶器の勉強をし出した訳ですので、八ンディを背負っいると思い、器の成形にしてもロクロで勝負し烦ても、若い人には太刀打ちできないと思ってました。また美術大学に行ったわけでもありませんので、デッサンもしておりません。 ただ少し造園設計の勉強していた程度ですので、絵画や彫塑も出来ないというコンプレックスを持っていました。しかし八木先生の工房で先生の助手をしているうちに、私のうちに造形の自信ができてくる様になりました。 それですっかりのめり込んでいるうちに、ふと気が付いた時にもしこのままだと、私は八木一夫風の物はできる様ななるけれど、越えられないことになるのではと思う樣になり、2年で先生の工房を辞しました。ただそれから5年間は才プジエを作る事はできす、5年目にして、やっと、単純な形態の組み合わせからスタ-トしました。 先生から教わったことに、土味に媚びるな、即ち、茶陶。侘び寂びに落ちるな、と言う事でした。それで私は先ず手捻りであっても、その痕跡は出すな、焼成においても焼き味は否定してました。それで形が明瞭に表現できる事で、黒陶を制作の基本に してました。 しかしある程度自分に自信ができてくると、その縛りを解く様に窯変、割れる事などを取り入れた、Re-Creationのシリ-ズを作る様になりました。

《小寒》 柴烧2023年
42CM×15CM×46CM

と私のことを述ベてきましたが、私とJacksonの共通点があります。私たちの作品は、所謂、陶芸好きというステレオタイプ的な人には受け入れられません。それはご自身の思い浮かべる陶器では無い牿的からです。またそれを解りながら自分のスタイルを変えようとしていません。